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2007年9月16日 (日)

それでもイジメはつづく

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「イジメ」について、もっと知ろう!

 フジのドラマ「ライフ」の最終回、観ました。コミックを読んでみる気になってきたぞぉ~!

 私はイジメを研究しているわけでも、直接間接に学校教育の現場に関わっているわけでもない。けれど、この問題に興味はある。先ほど最終回を迎えたドラマ「ライフ」に触発されて、イジメのことについて書いてみたいと思う。

 イジメの問題が起きると地方議会で、自分自身何の研究もしていない「にぎやかし」の議員さん方が教育委員会に「うちの学校はどぉ~なっているんだ?!」という質問を発しますね。で、教育長という人が答えます。

「幸いにして、わが街の学校では小さな例を除き、激烈なイジメ問題は発生しておりません。しかしながら、これは他人事で済ませることのできない問題です。そこで教育委員会では、他人の痛みが分かる心を大切にする教育を徹底するよう、各学校へ指示を出したところです」

 こうして、「他人の痛みを理解する子供が良い子」という統一の価値観の中に、すべての学校の児童・生徒が置かれることになります。先生は、自分の実存的価値観で子供を裁いているようですが、その個人的にしか通用しそうにないチンケな価値観とは相容れない考え方をする子供がいると、先生自身の自意識がヤバイんでしょう。

 「先生は正しくて、生徒はそれに従う」という疑いの余地がないように見える自明な考え方は、しかし実はぜんぜん自明なんかじゃなくて、常に正しき見識を持たなければならないと学校や親たちから期待され、その圧力と毎日向き合う教師の自意識をかろうじて維持するための、一方的な押し付けでしかない。

「自分と違う考え方、感じ方があってもいい。それはそれとして尊重し、多様性を引き受けよう 」などと考える教師はいるのだろうか?

 進学のための内申書をつけなければならない立場はさぞつらかろうとお察しもうしあげるけれど、画一の価値観で縛られたコミュニティーは、そこからはみ出す者を潰し、イジメのターゲットそして血祭りにあげる。イジメには構造的な発生のメカニズムがあるという主張を、最近の専門家の一部がし始めているようだ。

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体 この本は相当に難解で、なかなか手に取ろうという気が起きないと思う。これがすべてではないにしても、核心部分をえぐり出すことに成功していると思う。ただ難解な専門書という感は否めず、読む気が起きない人も多いと思う。これについては、核心部分が別の本の中に、比較的平易な書き方でまとめられているので、それもついでに紹介しておこう。
学校が自由になる日 上記の本の著者内藤朝雄氏が、中ほどで「いじめの社会理論」のエッセンスを書いているので、参照してみて欲しい。宮台氏、藤井氏の対談も読み応え十分。

 クラスが順位付けのために同一の価値尺度で統制された場合、そうした統制による抑圧が、それに合せることができない人間を排除する下地をつくってしまう。

 「だって、あいつが悪いから・・・」という理由付けさえできていれば、「場の空気」は、どれほどにも凶悪、凶暴になっていく。「あいつが悪いんだから仕方がない」というふうに。

 けれど、ここでひとつ考えてみてほしい。なにかのきっかけ、引き金、落ち度などはあったのかもしれないが、だからといって精神的、肉体的な暴力がそれに見合うものなのかどうか。そして、「場の空気」という絶対の法律で、クラスという小集団の中の誰かが裁判官の真似事をして、多くのクラスメイトが処罰執行人にさえなることが妥当なことなのかどうか。

 内藤氏は、戦時下の抑圧状態にあった社会が、激烈なイジメ社会に豹変した事例を引き、そのメカニズムがそのまま、まさに今、学校で同様の形態で再現されていることを論じている。

 ライフにも出てきたが、クラスには実にさまざまな性格を持った人間たちが押し込められ、仲良くしろ、という至上命令を下されている。現代の学校は、私から見れば共通感覚を形成しづらいという点でつらく厳しい共同体だと思える。昨日のザ・ベストテンの1位の歌の話ができた昔は、その意味では楽だったと思う。現代社会は、社会が求めた選択肢の多様性が実現されたおかげで、TV、PCなどからアクセス可能な多様な情報に、与えられた個室からアクセスし、てんでバラバラな時間を各自が過ごしている。共通感覚をもった少数のメンバーで構成される小集団ができ、通常はその集団内でのルールに従って生きることで、自意識と自己肯定感を各自が調達してかろうじて安定を保つことに成功している状況ではないだろうか。

 同じ言葉づかい、同じファッション、同じ価値観に寄り添うことができれば、自分の居場所が確保される。一人が「あいつウザくね?」と言い出せば、「だよね!」という同意が期待され、同調を余儀なくされる。自分がどう思うか、ではなく、同じ気分を共有し維持していくことを強制される集団が形成されてしまうことが、構造的イジメのもうひとつの下地になっていると思う。

 しかし、たかだか自分の意に沿わないとか、同調しないとか、オンリーワンの部分を持っているとか、というあって当然の個人の自由が、排除や処刑の対象になってしまうのはなぜなのだろう?なぜあんたが裁くのか、裁ける立場なのか、相手はそんな風に裁かれる人間なのかと、真摯に自問してほしいものだ。

 これはオウム真理教が道を誤る原因にもなったロジックと同じだ。つまり、「尊師が希求する理想世界実現の妨げになる人間や、偉大なる尊師の偉大なる活動を排除しようと悪魔が使わした悪い人間は、相対的に考えれば殺してしまっても罪にはならない」ということと、まったく同じだと私には思える。

 いじめられるのはもちろん、誰かをいじめることにも嫌悪感を感じるアユムという主人公の設定は、「分かるけど、私はそこまではできない」という理想と現実の大きな隔たりを、絶望感とともに子供たちの心に残してしまうのではないか。「嫌なやつはやられて当然」という勧善懲悪的な態度を読み取る人間はまさかいないと思うが、まずは自分が厳しい統一基準で裁かれて、個性をなくして生きなければならない地獄の鬼にならないように、自分と違う他人の存在に、もっともっと寛容でいてほしいと思う。

 そのために、私たちはもっともっとイジメについて学び、語らなければならないのだと思う。

 そのひとつのキッカケを社会に提供したドラマ「ライフ」の社会的な意義は大きかったと思うのだ。

 こうしたメカニズムをもっともっと研究して、人間には特定の環境下では、そうした残酷、残虐な悪魔に変身する可能性があるのだということを小さいうちから学ぶことができる教育システムを提供できればいいと思うんだけどなぁ~・・・

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