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2010年11月24日 (水)

茂木健一郎氏への手紙

茂木健一郎様

 初めまして、arjunaheartと申します。
 ツイッターで茂木さんをフォローさせていただいています。

 連続ツイートをいくつか読ませていただいた中で「神」に
ついて思うところがあり、メールいたしました。

 「神の死」は、自然界の生成原理が神の意志か科学法則なのか
という場面で、社会の基盤を担い始めた科学が優位にたったこと
を言っていますよね。そこは、人知を超えた力に対する畏敬の念
とは違うので、話の展開にちょっと違和感を感じました。

 私が気になったのは、お腹が痛いときにお願いする神は同じだ
というところです。世界のことをあまり知らないので日本のこと
として話しますが、日本では大きな自然エネルギーに対する畏怖
の念があります。これは子供の頃から神社へ参拝に行くときなど
に共有される日本人的な宗教性です。自然の大きな力を支配して
いる誰か、という発想が「神頼み」という行為に向かわせるのだ
と思います。
 それは人間の形をしている必要がないから、チョークでも豚の
尻尾でもいいのでしょう。その力の主を象徴するものは、この世
には存在しないので、自分の選んだアイコンで十分。
 自分では対処できない出来事に直面したときに、それを支配し
コントロールする「何か」に対して救済をお願いする。これは積
極的な信仰を持たない日本人にとってはあたり前の行為です。
 日本人の自然信仰的な作法は「同じ」でいいと思います。もち
ろん、人によっては神の方を向かない場合だってあるでしょうが、
大方は、子供の頃から慣れ親しんだ作法を実践します。
 しかし、それが同じ概念を念頭に置いたものかどうかは知りよ
うがないです。仕組みとしては同じでも、対象が同じかどうかは
言えないと思います。そんなつまらないことが言いたかっただけ
です。

 ところで、茂木さんが研究されているクオリアについて、最近
よく考えていますが、むずかしく、像を結ぶどころか拡散してし
まいます。
 私が考えるクオリアは、言語的に認識される世界の一部ではな
いかと思っています。動物に取っては「このきのこは赤い」と
思うことに意味はなくて、食べられるかどうか、危険かどうか
が全てです。しかし言語を持つ人間は、それが赤くて、丸くて
キレイで、成長のメカニズムを持って、という野生では余計な
認識を共有します。言語は個人が感じるクオリアの質的な違いを
飲み込んで、同じ言葉に結晶(象徴)させます。
 言語という道具によって、生きるうえでは過剰な意味が世界を
構成し、それを身体感覚が後追い的に赤いとかスベスベだとかと
表現していったのではないかと思うのです。
 いずれにしても、「赤い」というのは言語化されることで出現
した認識ではないかと思うのです。時間に左右されない言語は
過去や未来も生み出しました。感じる内容にはすでに名前がある。
名前は社会を均一に保つための役割を担う。個人が感じるクオリア
の違いはブラックボックスで、アウトプットが言語化されている。
 この辺のことを漠然と考えているのですが、うまく表現できない
のです。最近、主観とか客観とかの話をツイッターでしていて、
この話になり、結局納得のいく表現にはたどり着きませんでした。

 私は「空の思想」をきっかけとして、自分なりの世界観を日々
模索する者です。私は無神論者ですが、先ほどの意味では自然の
エネルギーが神です(特に言えば稲妻かな)。

 今後も、茂木さんのお仕事をフォローしながら、自分なりの
世界をグルグル回して行きたいと思っております。

 長々と、つまらない話にお付き合いいただきありがとうございました。
 お元気で、すばらしい研究成果をたくさん生み出されることを
お祈りしています。

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