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2011年7月29日 (金)

千曲市叙景4  7月21日

 私が小学生だった昭和40年代後半から50年代の前半の千曲川は、現在よりも汚れていた。川原にはゴミも多く、網だけをもって出かけても、どこかに必ず魚の入れ物となるビニール袋やプラの容器があった。

 戸倉上山田温泉の排水が流れ込む八王子水門付近の水辺にはゴミを燃やす穴が掘られており、いつも何か刺激の強い煙が出続けていた。火の番をしている人間はおらず、プラスティックが燃えるときの青や緑の炎が夕方の川原を怪しく照らし出していた。私と近所の友人たちは魚捕りに飽きると、そんなゴミ焼却場所で火遊びに興じた。知らないというのは恐ろしいことで、このころ大量のダイオキシン類を体内に取り込んだのは間違いないところだ。合成着色料や合成甘味料を始め、現在使われなくなって久しい「体に悪い」合成食品を毎日食べ、規制のゆるかった自動車の排気ガスを吸い、プラやビニールが燃えて出る煙を頻繁に吸い込んできた私の体は、大病しなかったとしてもそう長くはもたない気がする。

 街中を流れる水路はゴミ捨て場で、それが集まる集積場が千曲川の川原だった。それは現在でも変わっていない。水路はほとんどの部分が暗渠で、わが家のある温泉街の北の外れでようやく開渠となる。その汚らしく悪臭を放つ三面コンクリートの水路に背を向けるように飲食店や旅館が軒を連ねていたものだ。水路は、目の前からゴミを運び去ってくれる便利な場所で、水路ギリギリに建てられた家々の窓からはいつもいろいろなものが捨てられていた。消火のために水を張った大きな灰皿をあける水音が、水路沿いの家々の壁に反響して夜の静寂を破ったりした。夏祭りの翌日には、大量の金魚が水路にいた。温泉が流れ込んでいるため、グッピーが年間を通して生息していた。旅館の池へ塀越しに石を投げると錦鯉が水路へ逃げ出すことがあった。そんな汚れた水路も、私の遊び場のひとつだった。よく落ちた。1mを超える巨大な鯉を捕まえた。うなぎを捕ったこともあった。

 最近、下水道の普及により水質が良くなったせいか、グッピーが復活していた。グッピーは上手に飼うと無闇に増えるので、増えすぎた魚を水路へ放流しているのではないかと思うが、集まっている場所に網を入れると1度に百匹を超えるグッピーが捕獲できることもある。

 温泉場にはきれいな水が流れる水路が似合う。これから先、街の雰囲気を作りこんでいく意味でも、現状の暗渠部分を開き、趣のある水辺と裏路地を巡ることができる遊歩道をセットで整備できれば、この温泉の魅力はさらに増すことだろう。水車を回せば発電もできるし、その電気で川辺をライトアップすることも可能だ。考え始めればキリがないが、夢は膨らむ。

 経営が県外資本になったホテル清風園の東側河川敷には「親水公園」というのがある。噴水と池と植え込みがあるだけの公園で、しかも大河に面しているのに、なぜか公園の水に親しむというところが変わっている。学校にプールが無かったその昔は、千曲川がプール代わりだったと聴いた。環境関係の法律が制定される前は、川がゴミ集積場だったので汚れ放題だったが、現在のレベルなら飲んだり、目に入れたりしなければ泳いでも問題はなさそうな水質になってきたと感じる。うまくすればサケがたくさん帰ってくる可能性もある。地元の生活の一部になってこそ、初めて「わが郷土の大河」となるのであって、橋の上から見るだけで、釣りもせず、河川敷さえ降りず、年中荒らして置くのではどこの川でも一緒だ。

 上流に暮らすわれわれが汚している新潟の、あの汚い海でさえ泳げるのだから、この辺りの川で泳いでも大丈夫だろう。流れてしまうのはまずいが、地元の住民が夏には海水浴ならぬ淡水浴で涼むという川との親しみ方があってもいい。

 河川敷に面した旅館でもっとも高級なのが「しげのや」だ。じつのところ、玄関に入ったことがあるだけで、利用したことがないのだが、そんな高級な旅館を使うのは私には分不相応なことに違いない。最近は温泉の夏祭りでここの社長と懇意にさせてもらっている。冷静沈着で思慮深く、何事にも動じない。いつも人の顔色ばかり気にしている私とは大きな違いだ。

 そんな男が社長を務めるしげのやの前を抜けて千曲川堤防へと続く道が、ひどく狭い。先日の夏祭りの2日目の神輿巡航の際にも、彼が責任者を務める「彦神輿」をなんとしてでも旅館の前まで彼を上に乗せた状態で担いでいきたいという小頭と担ぎ手の総意により、しげのやの植木の枝をへし折りながら、力ずくで前に進めた。途中の枝にアシナガバチの巣があり、付近には怒ったハチがブンブン飛び交っていたが、そんなことはものともせず、玄関前まで神輿を担ぎ込んで無事、三本締めをおこなった。

 無理して入れたものは出すのも大変だ。もう少しでもこの道が広かったらこんなに苦労はしなくてもいいのに、と思う反面、困難をものともせず責任者をどこまでも担ぎ続けてくれる若連の心意気がリアルに見えて、案外悪くなかったと思う自分もいる。社長は目に涙を浮かべていた。

 ここに限らず上山田の道の多くは狭い。自宅横の2号水路に架かる橋は車幅の広い車は通ることができない。特に車高が低くドアミラーが橋の手すりに当たるような車の通行は無理で、近所の義兄の友人が乗ってきたフェラーリは、わが家へ入ることなくバックして帰っていった。

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千曲市叙景3  7月14日

 わが家の裏山は、巨大なネオンサインが設置された「城山」へと続いている。つい最近まで山頂の寺院は「城泉山観音寺」と言っていたのだが、現在は「善光寺大本願別院」に変更されている。麓の平地から300mほどの高さの城山山頂には「戸倉上山田♨」という文字の巨大なネオンサインが右から左へと配置され、七色に輝いていた。

 東日本大震災による福島原発問題の影響で中部電力の浜岡原発が菅総理によって停止された。七色のネオンが現在点灯していないのは、そうした一連の出来事の影響による節電を始めたからだ。そんな理由ではあっても、消しておけるのは地元観光団体としては好都合な面もあるだろう。あれだけの巨大なネオンを毎日深夜まで点けておく電気料金は決して安くはない。

 あのネオンは新幹線ができる前の特急あさまの時代、東京から帰る夜汽車の車窓から見える「ふるさとの灯」だった。当時、赤一色でゴシック体のネオンは、いかにも色街の風情たっぷりの怪しげな雰囲気を眼下に広がる旅館街に振り撒いていたものだったが、現在の行書の七色は、過去の怪しげなイメージを一掃してしまったようだ。

 万葉橋を渡って、温泉中央通りを右折せずにそのまま直進すると、城山の上り口にぶつかる。そのまま進むと急な山道が山肌に刻まれ、右手眼下に温泉街を見下ろしながら中間の展望台に出る。そこから折り返して少し進むと道は平らになり左手に温泉街、右上に大本願別院が姿を現す。

 電球でかたどられ、下界からはどう見てもラブホテルに見えてしまうこのお寺はコンクリート造りで、昭和40年に完成した。見晴らしがよく、上田から長野までを一望できる東向きの手すり付近には100円で見ることができる昔ながらの双眼鏡が設置されている。

 本堂正面には赤い大きな提灯が吊り下げられており、その上の天井には龍の絵が描かれている。私の小さい頃は節分のイベントで力士や芸能人が豆をまきにやってきたものだ。落花生と一緒にマッチの空き箱が投げられて、その中に大小のダルマなどの「当たり」が入っていた。今でも節分の豆まきはおこなわれていて、地元の関係者が豆をまき、豆まき好きな地元の人々が、エプロンを着けたりパーカーを着たりしてマッチ箱の捕獲率向上に余念がない。

 本堂裏側の豆まき会場から山手、すぐのところに「澳津神社」がある。その昔、この山頂付近で発見されたと言われる男性器、女性器をかたどった巨石が祭られ、子宝祈願や縁結びの神社として有名だ。「澳津彦命(おきつひこのみこと)」と「澳津姫命(おきつひめのみこと)がそれぞれの御神体の名前になっているという設定らしいが、澳津彦・姫は本来かまどの守り神だ。

この石のシンボルから魂を分けてもらった木造のレプリカを神輿に乗せて盛大におこなわれる祭りが、戸倉上山田温泉夏祭りだ。これを書いているのが2011年7月14日木曜日なので、今年の夏祭りの直前ということになる。

 昭和3年に勇獅子のみで始まったこの祭りには、後年多くの神輿が加わり、盛期には300人いたといわれる芸妓衆が担ぐ神輿が2基出ていた時代もあった。時代と共に観光形態も変化し、おねえさん方がお座敷に呼ばれなくなり、また、そうした厳しい芸能の世界へ飛び込む女性の数も激減したため、現在では芸妓衆の神輿はなくなってしまった。そのかわり「華神輿」という地域の女性たちが担ぐ神輿が2基登場し、好評を博している。そもそも、この温泉地は観光とともに芸能を支えた女性たちによって発展した。芸者衆は言うに及ばす、旅館の女将や気の利く仲居さん、商店の看板娘、スナックのママなど、観光地の「顔」は常に女性で占められてきたのだ。男性の神輿が2基なら、女性の神輿も2基。100個の赤い石を見つけるためにがんばったお政も女性だ。今でこそ複雑な観光業を切り回すのに旦那衆は必死だが、その昔はすることもなくぶらぶらしていても旅館は繁盛した。そうした「暇な」旦那衆が暇に任せてあれこれとイベントを考えたり、太鼓を叩いたり、温泉観光地の集客の仕組みづくりに専念してきた。それができなくなってきたことも、この温泉地が低迷を続ける理由のひとつではないだろうか。

 私は「若連委員長」という大きな役を昨年無事終了し、今年は「若連相談役」という役に納まっている。この大きなイベントを纏め上げるのは困難を伴う大仕事だが、東日本大震災後、地域の力が問われる時代となった今、この祭りを盛大にやり遂げることで地域力を充填し、若者がお互いの顔をよく知る仲間の輪を広げていくことで、地域は活性化されるように思う。

出る人も見る人も、自分の祭りとして心ゆくまで楽しんでほしいものだ。

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2011年7月 8日 (金)

千曲市叙景2  7月6日

昔の大正橋には、橋本体とは別に赤いペンキで塗られた歩行者専用の橋があった。橋本体は私の主観的なイメージではうす緑色、下流側の幅2mほどの歩道は赤のイメージが記憶の片隅に残っている。現在の立派な大正橋は10年ほど前に古い橋の下流側に架け替えられ、両側にこれまた立派な歩道が整備された。

 私は平日は毎朝の通勤時に、この新しい大正橋の立派な歩道を自転車で走っている。歩道には地元の「小石(恋し)の湯」伝説にちなんだ99個の赤い角の取れた小石が埋め込まれている。「小石(恋し)の湯」伝説というのはこんな話だ。その昔、急病の看病で恋仲になった男が実は縁談の相手だったという縁で婚約した米吉とお政だが、米吉が仕事で江戸へ行ったきり戻らず、恋人の身を案じて八坂の智識寺十一面観音にお参りを重ねたところ、ある晩、夢に老人が現れて「米吉が踏んだ角の取れた赤い小石を100個、千曲川の川原で見つけることができれば米吉は帰ってくる」と言った。これは観音様のお告げとお政は連日川原へ出かけて小石をさがしただ、最後のひとつがなかなか見つからず雪の降る中で途方にくれていると、夢に現れた老人が川原に現れ、ある一点を指差して消えた。そこには暖かなお湯が湧き出しており、そこで最後の小石を見つけるとすぐに米吉が帰って来たという物語だ。

 「小石」と「恋し」がかかった題名を持ち、戸倉上山田温泉の発見の起源を描いた物語は、100年前には何もない川原だったこの場所が高度経済成長期に一大温泉地へと急成長を遂げた過程で産み落とされたのではないかと推測しているが、その真相を知るものはもはやこの世にはいないだろう。

 先日職場に4人の小学生がやってきて、この伝説について教えてほしいと言ってきたので、かいつまんで教えた。伝説の中で、お政の夢枕に立った老人は「おまえは『信濃なる筑摩の川のさざれ石も』という歌を知っているか」と尋ね、お政が「君しふみてば玉と拾はむ」と後歌を答えている。万葉集14巻3400番目に収録された作者不詳の東歌を言っているのだが、この千曲市の辺りで読まれたものであるかは実際のところ分かっていないようだ。

 大正橋の500mほど上流には万葉橋が架かり、西詰めの堤防には万葉公園がある。いくつかの万葉歌碑が置かれているが、中でも最も古い歌碑に、この歌が書かれている。昭和25年に、三角形のおむすびのような形の大きな石に佐々木信綱の揮毫によるこの歌の銅版がはめ込まれて建立されたと伝えられている。この最も古い歌碑は、子どものころから見慣れている。

 この温泉地で毎年行われている戸倉上山田温泉夏祭りや千曲川納涼花火大会に作詞家の山口洋子が来ていたことが縁で、この公園内に五木ひろしのヒット曲「千曲川」の歌碑が建ち、ボタンを押すと歌がフルコーラス聴けるようになっている。

 子どものころ毎日のように出かけた千曲川の川原には今、子どもが遊ぶ姿は見られない。千曲市がその名を冠した千曲川だが、市の象徴であるこの大河と地域の住民との関わりは、時代と共に希薄になり、現代の子どもたちには川で遊んだ思い出は欠落している。現代を生きるわれわれは川で死ぬ必要はない。川で遊んだ思い出と川で死ぬことを天秤にかければ、それは死ぬほどのことではないと誰もが思う。しかし、現代の千曲市民が千曲川から離れてしまった原因は、実はそんなことにはなく、多くの子どもたちは川遊びなんかには見向きもしない「仮想世界」という広大な遊び場を与えられて生きている。

 大人でさえ川での遊び方を知らない。この現実を考えずに川とのふれあいだ「水辺の楽校」だと手間と金と時間をかけてみたところで、わがふるさとの千曲川はアレチウリが蔓延り、大量のごみが投棄された「負の場所」であり続けることだろう。

 1キロ3分のペースで自転車を走らせながら水面を覗くと、水が澄んでいるときには魚の姿を目で追うことができる。せめて毎日の通勤時の川と過ごす時間を楽しみたいと思っている。

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