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2015年2月12日 (木)

千曲市叙景5

 国道18号線粟佐の信号を東に折れて最初の信号のあるT字路

の左側に須須岐水神社がある。この辺り一帯は江戸時代の参勤交代

などで栄えた北国街道の矢代宿があった場所だ。2006年に拝殿

が建て替えられ、銅板葺きの豪奢な建物が屋代駅前通を北へ折れた

先の突き当たり正面に現れる。

 当時、この宿場の問屋をしていた松崎平左衛門という人物は私の先祖にあたるらしい。わが家の菩提寺である満照寺では、本堂の仏像の裏に位牌を置く場所があり、そこで巨大な平左衛門の位牌を見たことがある。霊や魂の存在を説かない仏教で、なぜ位牌が必要なのか理解に苦しむが、さりとて仏になった個人の仏像を作るわけにもいかないから、当たり障りなく場所もとらない位牌で思い出せる範囲の先祖の記憶を維持しているのかもしれない。過去にどれほど偉かったかは...知らないが、その流れを受け継ぐからといって特段の思い入れは私にはない。過去は過去であり、現在の私をめぐる人間関係や社会関係の中では何の意味もないことだ。

 書家でもあり「傑斎」という筆号で屋代南高校の前に筆塚を残した平左衛門は、この屋代の地で多くの人に愛され、お世話になったのかもしれない。先祖がいた土地には奇妙な親近感がわく。それだけに、この神社前の通りが拡幅されながら古い時代の面影を無くして行くのに一抹の寂しさを感じる。この辺りは一時期の歴史を色濃く刻んだ特別な場所だった。現在の日常生活を便利で快適で安全なものにするための改変は、しかし刻まれた歴史を一枚、また一枚と剥ぎ取っていく。松崎平左衛門の名前も境内の石灯篭にかろうじて残っている程度だ。石塀に名を刻んだとて無名のままでこの世を去るであろう私にとって、過去への執着は、どちらかといえば戒めなければならないものであるのだが。

 須々木水神社前を通過して屋代の踏み切りを渡り東へ進むと、風景は大きく開け、一面の水田地帯が姿を現す。奈良時代から中世にかけて整備された条里水田の遺構も、度重なる圃場整備により消えかけているとはいえ、千曲川の両岸の平坦地にぎゅうぎゅうと軒を並べて人々が暮らす千曲市の中では唯一、広々としたのどかな田園風景が見られる場所だ。

 千曲市の田植えは、この地域に古くから栽培されてきた麦の刈り取り後の6月に行われる。この屋代田んぼでも6月には広々とした黄金色の麦畑が見られ、その風になびく様子はさながら波高き海原のようである。

 南の有明山の中腹には古墳時代、4世紀ごろに造られた「森将軍塚古墳」がある。かつて科野の国を治めた王の墓といわれ、全長100mと長野県下で最大の古墳だ。石室部分は麓の古墳館内に精密復元されてみることができるほか、山頂の復元古墳には副葬品である埴輪なども配置され、この地の歴史の奥深さを感じさせてくれる

 この古墳の上からの眺望は絶景で、足下の屋代田んぼから目を上げると、長野市市街地からその先の飯縄山までが一望できる。この周辺には有明山、倉科、土口と3つの将軍塚古墳があり、さらに13の円墳も確認されており、森将軍塚にゆかりの一族の墓所として、5~7世紀に渡って追葬が行われていたという。

 有明山の北向き斜面には砂利採取場があり、段カットされた山肌には草一本なく、無惨な姿を晒している。また、考古学上の調査が入る以前にこれらの古墳群はあらかた盗掘されており、多くの副葬品が散逸したという。どれほどの歴史が刻まれていようと、本来野蛮な人間の破壊の手を止められるものはないのだ。

 歴史が息づく屋代地区に一重山という小さな山がある。ここにはその昔、坂城の村上氏一族の屋代氏の居城(屋代城)があった山だ。屋代の踏み切りから山道をしばらく登るとお不動さんがある。毎年7月28日にはこの不動尊の夏祭りがある。しかし、私の心の中にわずかな痛みと共に残る、この山の思い出がある。高校1年の夏、屋代地区にある高校の文化祭最終日の夜、友人と待ち合わせて一重山に初めて登った。「酒・タバコはやめよう」ということで、1リットル瓶のジュースをデイパックに入れて背負い込み、山道を登ると、上にはすでに大勢の人の気配。少し進むと暗がりでいきなり腕をつかまれて引きずられるように不動尊まで連れて行かれてからやっと状況が判明した。

 上にたくさんいたのは同級生ではなくほとんどが先生だったのだ。私のほかに2名がすでにお縄になっており、その後も数人が暗がりで罠にかかって引きずられてきた。酒・タバコが無かったことが幸いして放免され、仕方なく粟佐方面へ向かいながら体制を建て直し、当時木橋で、堤防まで届かず川原に下りる旧式の粟佐橋周辺で再度宴を囲む算段をめぐらせた。

 私とKは近所にあったK宅へ食料品を調達に向かい、残りの仲間たちは粟佐橋へ会場設営に出かけたが、食料調達組が粟佐橋へ向かう途中で引き上げてきた会場設営舞台と出くわした。聞いてみると、第二会場にもすでに追手が先回りしており、一網打尽にされたとのこと。さらに悪いことに、現場にいなかったわれわれ二人の名前も吐いたとのこと。翌日は休みだったが、われわれ1年3組の悪ガキどもは全員呼び出しを受け、体育研究室で当時「鬼のY」と言われ恐れられていた体育教師に数時間にわたりたっぷりといたぶられたのだった。仲間の一人、ポケットからタバコが出てきてしまった野球部のNは、私の隣で正座しながら無惨に顔を腫らせて唇の端から血を流していた。タバコは悪いとはいえ、今なら懲戒免職もののすさまじい暴力だった。私自身は足に痺れが来た程度で済んだとはいえ、高校1年生にしてなんともイケていなかった若かりし自分を思い出し、「なぜもっとうまく計画を立てなかったのか」との後悔に身を焦がすのであった。

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