2015年2月12日 (木)

千曲市叙景5

 国道18号線粟佐の信号を東に折れて最初の信号のあるT字路

の左側に須須岐水神社がある。この辺り一帯は江戸時代の参勤交代

などで栄えた北国街道の矢代宿があった場所だ。2006年に拝殿

が建て替えられ、銅板葺きの豪奢な建物が屋代駅前通を北へ折れた

先の突き当たり正面に現れる。

 当時、この宿場の問屋をしていた松崎平左衛門という人物は私の先祖にあたるらしい。わが家の菩提寺である満照寺では、本堂の仏像の裏に位牌を置く場所があり、そこで巨大な平左衛門の位牌を見たことがある。霊や魂の存在を説かない仏教で、なぜ位牌が必要なのか理解に苦しむが、さりとて仏になった個人の仏像を作るわけにもいかないから、当たり障りなく場所もとらない位牌で思い出せる範囲の先祖の記憶を維持しているのかもしれない。過去にどれほど偉かったかは...知らないが、その流れを受け継ぐからといって特段の思い入れは私にはない。過去は過去であり、現在の私をめぐる人間関係や社会関係の中では何の意味もないことだ。

 書家でもあり「傑斎」という筆号で屋代南高校の前に筆塚を残した平左衛門は、この屋代の地で多くの人に愛され、お世話になったのかもしれない。先祖がいた土地には奇妙な親近感がわく。それだけに、この神社前の通りが拡幅されながら古い時代の面影を無くして行くのに一抹の寂しさを感じる。この辺りは一時期の歴史を色濃く刻んだ特別な場所だった。現在の日常生活を便利で快適で安全なものにするための改変は、しかし刻まれた歴史を一枚、また一枚と剥ぎ取っていく。松崎平左衛門の名前も境内の石灯篭にかろうじて残っている程度だ。石塀に名を刻んだとて無名のままでこの世を去るであろう私にとって、過去への執着は、どちらかといえば戒めなければならないものであるのだが。

 須々木水神社前を通過して屋代の踏み切りを渡り東へ進むと、風景は大きく開け、一面の水田地帯が姿を現す。奈良時代から中世にかけて整備された条里水田の遺構も、度重なる圃場整備により消えかけているとはいえ、千曲川の両岸の平坦地にぎゅうぎゅうと軒を並べて人々が暮らす千曲市の中では唯一、広々としたのどかな田園風景が見られる場所だ。

 千曲市の田植えは、この地域に古くから栽培されてきた麦の刈り取り後の6月に行われる。この屋代田んぼでも6月には広々とした黄金色の麦畑が見られ、その風になびく様子はさながら波高き海原のようである。

 南の有明山の中腹には古墳時代、4世紀ごろに造られた「森将軍塚古墳」がある。かつて科野の国を治めた王の墓といわれ、全長100mと長野県下で最大の古墳だ。石室部分は麓の古墳館内に精密復元されてみることができるほか、山頂の復元古墳には副葬品である埴輪なども配置され、この地の歴史の奥深さを感じさせてくれる

 この古墳の上からの眺望は絶景で、足下の屋代田んぼから目を上げると、長野市市街地からその先の飯縄山までが一望できる。この周辺には有明山、倉科、土口と3つの将軍塚古墳があり、さらに13の円墳も確認されており、森将軍塚にゆかりの一族の墓所として、5~7世紀に渡って追葬が行われていたという。

 有明山の北向き斜面には砂利採取場があり、段カットされた山肌には草一本なく、無惨な姿を晒している。また、考古学上の調査が入る以前にこれらの古墳群はあらかた盗掘されており、多くの副葬品が散逸したという。どれほどの歴史が刻まれていようと、本来野蛮な人間の破壊の手を止められるものはないのだ。

 歴史が息づく屋代地区に一重山という小さな山がある。ここにはその昔、坂城の村上氏一族の屋代氏の居城(屋代城)があった山だ。屋代の踏み切りから山道をしばらく登るとお不動さんがある。毎年7月28日にはこの不動尊の夏祭りがある。しかし、私の心の中にわずかな痛みと共に残る、この山の思い出がある。高校1年の夏、屋代地区にある高校の文化祭最終日の夜、友人と待ち合わせて一重山に初めて登った。「酒・タバコはやめよう」ということで、1リットル瓶のジュースをデイパックに入れて背負い込み、山道を登ると、上にはすでに大勢の人の気配。少し進むと暗がりでいきなり腕をつかまれて引きずられるように不動尊まで連れて行かれてからやっと状況が判明した。

 上にたくさんいたのは同級生ではなくほとんどが先生だったのだ。私のほかに2名がすでにお縄になっており、その後も数人が暗がりで罠にかかって引きずられてきた。酒・タバコが無かったことが幸いして放免され、仕方なく粟佐方面へ向かいながら体制を建て直し、当時木橋で、堤防まで届かず川原に下りる旧式の粟佐橋周辺で再度宴を囲む算段をめぐらせた。

 私とKは近所にあったK宅へ食料品を調達に向かい、残りの仲間たちは粟佐橋へ会場設営に出かけたが、食料調達組が粟佐橋へ向かう途中で引き上げてきた会場設営舞台と出くわした。聞いてみると、第二会場にもすでに追手が先回りしており、一網打尽にされたとのこと。さらに悪いことに、現場にいなかったわれわれ二人の名前も吐いたとのこと。翌日は休みだったが、われわれ1年3組の悪ガキどもは全員呼び出しを受け、体育研究室で当時「鬼のY」と言われ恐れられていた体育教師に数時間にわたりたっぷりといたぶられたのだった。仲間の一人、ポケットからタバコが出てきてしまった野球部のNは、私の隣で正座しながら無惨に顔を腫らせて唇の端から血を流していた。タバコは悪いとはいえ、今なら懲戒免職もののすさまじい暴力だった。私自身は足に痺れが来た程度で済んだとはいえ、高校1年生にしてなんともイケていなかった若かりし自分を思い出し、「なぜもっとうまく計画を立てなかったのか」との後悔に身を焦がすのであった。

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2011年7月29日 (金)

千曲市叙景4  7月21日

 私が小学生だった昭和40年代後半から50年代の前半の千曲川は、現在よりも汚れていた。川原にはゴミも多く、網だけをもって出かけても、どこかに必ず魚の入れ物となるビニール袋やプラの容器があった。

 戸倉上山田温泉の排水が流れ込む八王子水門付近の水辺にはゴミを燃やす穴が掘られており、いつも何か刺激の強い煙が出続けていた。火の番をしている人間はおらず、プラスティックが燃えるときの青や緑の炎が夕方の川原を怪しく照らし出していた。私と近所の友人たちは魚捕りに飽きると、そんなゴミ焼却場所で火遊びに興じた。知らないというのは恐ろしいことで、このころ大量のダイオキシン類を体内に取り込んだのは間違いないところだ。合成着色料や合成甘味料を始め、現在使われなくなって久しい「体に悪い」合成食品を毎日食べ、規制のゆるかった自動車の排気ガスを吸い、プラやビニールが燃えて出る煙を頻繁に吸い込んできた私の体は、大病しなかったとしてもそう長くはもたない気がする。

 街中を流れる水路はゴミ捨て場で、それが集まる集積場が千曲川の川原だった。それは現在でも変わっていない。水路はほとんどの部分が暗渠で、わが家のある温泉街の北の外れでようやく開渠となる。その汚らしく悪臭を放つ三面コンクリートの水路に背を向けるように飲食店や旅館が軒を連ねていたものだ。水路は、目の前からゴミを運び去ってくれる便利な場所で、水路ギリギリに建てられた家々の窓からはいつもいろいろなものが捨てられていた。消火のために水を張った大きな灰皿をあける水音が、水路沿いの家々の壁に反響して夜の静寂を破ったりした。夏祭りの翌日には、大量の金魚が水路にいた。温泉が流れ込んでいるため、グッピーが年間を通して生息していた。旅館の池へ塀越しに石を投げると錦鯉が水路へ逃げ出すことがあった。そんな汚れた水路も、私の遊び場のひとつだった。よく落ちた。1mを超える巨大な鯉を捕まえた。うなぎを捕ったこともあった。

 最近、下水道の普及により水質が良くなったせいか、グッピーが復活していた。グッピーは上手に飼うと無闇に増えるので、増えすぎた魚を水路へ放流しているのではないかと思うが、集まっている場所に網を入れると1度に百匹を超えるグッピーが捕獲できることもある。

 温泉場にはきれいな水が流れる水路が似合う。これから先、街の雰囲気を作りこんでいく意味でも、現状の暗渠部分を開き、趣のある水辺と裏路地を巡ることができる遊歩道をセットで整備できれば、この温泉の魅力はさらに増すことだろう。水車を回せば発電もできるし、その電気で川辺をライトアップすることも可能だ。考え始めればキリがないが、夢は膨らむ。

 経営が県外資本になったホテル清風園の東側河川敷には「親水公園」というのがある。噴水と池と植え込みがあるだけの公園で、しかも大河に面しているのに、なぜか公園の水に親しむというところが変わっている。学校にプールが無かったその昔は、千曲川がプール代わりだったと聴いた。環境関係の法律が制定される前は、川がゴミ集積場だったので汚れ放題だったが、現在のレベルなら飲んだり、目に入れたりしなければ泳いでも問題はなさそうな水質になってきたと感じる。うまくすればサケがたくさん帰ってくる可能性もある。地元の生活の一部になってこそ、初めて「わが郷土の大河」となるのであって、橋の上から見るだけで、釣りもせず、河川敷さえ降りず、年中荒らして置くのではどこの川でも一緒だ。

 上流に暮らすわれわれが汚している新潟の、あの汚い海でさえ泳げるのだから、この辺りの川で泳いでも大丈夫だろう。流れてしまうのはまずいが、地元の住民が夏には海水浴ならぬ淡水浴で涼むという川との親しみ方があってもいい。

 河川敷に面した旅館でもっとも高級なのが「しげのや」だ。じつのところ、玄関に入ったことがあるだけで、利用したことがないのだが、そんな高級な旅館を使うのは私には分不相応なことに違いない。最近は温泉の夏祭りでここの社長と懇意にさせてもらっている。冷静沈着で思慮深く、何事にも動じない。いつも人の顔色ばかり気にしている私とは大きな違いだ。

 そんな男が社長を務めるしげのやの前を抜けて千曲川堤防へと続く道が、ひどく狭い。先日の夏祭りの2日目の神輿巡航の際にも、彼が責任者を務める「彦神輿」をなんとしてでも旅館の前まで彼を上に乗せた状態で担いでいきたいという小頭と担ぎ手の総意により、しげのやの植木の枝をへし折りながら、力ずくで前に進めた。途中の枝にアシナガバチの巣があり、付近には怒ったハチがブンブン飛び交っていたが、そんなことはものともせず、玄関前まで神輿を担ぎ込んで無事、三本締めをおこなった。

 無理して入れたものは出すのも大変だ。もう少しでもこの道が広かったらこんなに苦労はしなくてもいいのに、と思う反面、困難をものともせず責任者をどこまでも担ぎ続けてくれる若連の心意気がリアルに見えて、案外悪くなかったと思う自分もいる。社長は目に涙を浮かべていた。

 ここに限らず上山田の道の多くは狭い。自宅横の2号水路に架かる橋は車幅の広い車は通ることができない。特に車高が低くドアミラーが橋の手すりに当たるような車の通行は無理で、近所の義兄の友人が乗ってきたフェラーリは、わが家へ入ることなくバックして帰っていった。

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千曲市叙景3  7月14日

 わが家の裏山は、巨大なネオンサインが設置された「城山」へと続いている。つい最近まで山頂の寺院は「城泉山観音寺」と言っていたのだが、現在は「善光寺大本願別院」に変更されている。麓の平地から300mほどの高さの城山山頂には「戸倉上山田♨」という文字の巨大なネオンサインが右から左へと配置され、七色に輝いていた。

 東日本大震災による福島原発問題の影響で中部電力の浜岡原発が菅総理によって停止された。七色のネオンが現在点灯していないのは、そうした一連の出来事の影響による節電を始めたからだ。そんな理由ではあっても、消しておけるのは地元観光団体としては好都合な面もあるだろう。あれだけの巨大なネオンを毎日深夜まで点けておく電気料金は決して安くはない。

 あのネオンは新幹線ができる前の特急あさまの時代、東京から帰る夜汽車の車窓から見える「ふるさとの灯」だった。当時、赤一色でゴシック体のネオンは、いかにも色街の風情たっぷりの怪しげな雰囲気を眼下に広がる旅館街に振り撒いていたものだったが、現在の行書の七色は、過去の怪しげなイメージを一掃してしまったようだ。

 万葉橋を渡って、温泉中央通りを右折せずにそのまま直進すると、城山の上り口にぶつかる。そのまま進むと急な山道が山肌に刻まれ、右手眼下に温泉街を見下ろしながら中間の展望台に出る。そこから折り返して少し進むと道は平らになり左手に温泉街、右上に大本願別院が姿を現す。

 電球でかたどられ、下界からはどう見てもラブホテルに見えてしまうこのお寺はコンクリート造りで、昭和40年に完成した。見晴らしがよく、上田から長野までを一望できる東向きの手すり付近には100円で見ることができる昔ながらの双眼鏡が設置されている。

 本堂正面には赤い大きな提灯が吊り下げられており、その上の天井には龍の絵が描かれている。私の小さい頃は節分のイベントで力士や芸能人が豆をまきにやってきたものだ。落花生と一緒にマッチの空き箱が投げられて、その中に大小のダルマなどの「当たり」が入っていた。今でも節分の豆まきはおこなわれていて、地元の関係者が豆をまき、豆まき好きな地元の人々が、エプロンを着けたりパーカーを着たりしてマッチ箱の捕獲率向上に余念がない。

 本堂裏側の豆まき会場から山手、すぐのところに「澳津神社」がある。その昔、この山頂付近で発見されたと言われる男性器、女性器をかたどった巨石が祭られ、子宝祈願や縁結びの神社として有名だ。「澳津彦命(おきつひこのみこと)」と「澳津姫命(おきつひめのみこと)がそれぞれの御神体の名前になっているという設定らしいが、澳津彦・姫は本来かまどの守り神だ。

この石のシンボルから魂を分けてもらった木造のレプリカを神輿に乗せて盛大におこなわれる祭りが、戸倉上山田温泉夏祭りだ。これを書いているのが2011年7月14日木曜日なので、今年の夏祭りの直前ということになる。

 昭和3年に勇獅子のみで始まったこの祭りには、後年多くの神輿が加わり、盛期には300人いたといわれる芸妓衆が担ぐ神輿が2基出ていた時代もあった。時代と共に観光形態も変化し、おねえさん方がお座敷に呼ばれなくなり、また、そうした厳しい芸能の世界へ飛び込む女性の数も激減したため、現在では芸妓衆の神輿はなくなってしまった。そのかわり「華神輿」という地域の女性たちが担ぐ神輿が2基登場し、好評を博している。そもそも、この温泉地は観光とともに芸能を支えた女性たちによって発展した。芸者衆は言うに及ばす、旅館の女将や気の利く仲居さん、商店の看板娘、スナックのママなど、観光地の「顔」は常に女性で占められてきたのだ。男性の神輿が2基なら、女性の神輿も2基。100個の赤い石を見つけるためにがんばったお政も女性だ。今でこそ複雑な観光業を切り回すのに旦那衆は必死だが、その昔はすることもなくぶらぶらしていても旅館は繁盛した。そうした「暇な」旦那衆が暇に任せてあれこれとイベントを考えたり、太鼓を叩いたり、温泉観光地の集客の仕組みづくりに専念してきた。それができなくなってきたことも、この温泉地が低迷を続ける理由のひとつではないだろうか。

 私は「若連委員長」という大きな役を昨年無事終了し、今年は「若連相談役」という役に納まっている。この大きなイベントを纏め上げるのは困難を伴う大仕事だが、東日本大震災後、地域の力が問われる時代となった今、この祭りを盛大にやり遂げることで地域力を充填し、若者がお互いの顔をよく知る仲間の輪を広げていくことで、地域は活性化されるように思う。

出る人も見る人も、自分の祭りとして心ゆくまで楽しんでほしいものだ。

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2011年7月 8日 (金)

千曲市叙景2  7月6日

昔の大正橋には、橋本体とは別に赤いペンキで塗られた歩行者専用の橋があった。橋本体は私の主観的なイメージではうす緑色、下流側の幅2mほどの歩道は赤のイメージが記憶の片隅に残っている。現在の立派な大正橋は10年ほど前に古い橋の下流側に架け替えられ、両側にこれまた立派な歩道が整備された。

 私は平日は毎朝の通勤時に、この新しい大正橋の立派な歩道を自転車で走っている。歩道には地元の「小石(恋し)の湯」伝説にちなんだ99個の赤い角の取れた小石が埋め込まれている。「小石(恋し)の湯」伝説というのはこんな話だ。その昔、急病の看病で恋仲になった男が実は縁談の相手だったという縁で婚約した米吉とお政だが、米吉が仕事で江戸へ行ったきり戻らず、恋人の身を案じて八坂の智識寺十一面観音にお参りを重ねたところ、ある晩、夢に老人が現れて「米吉が踏んだ角の取れた赤い小石を100個、千曲川の川原で見つけることができれば米吉は帰ってくる」と言った。これは観音様のお告げとお政は連日川原へ出かけて小石をさがしただ、最後のひとつがなかなか見つからず雪の降る中で途方にくれていると、夢に現れた老人が川原に現れ、ある一点を指差して消えた。そこには暖かなお湯が湧き出しており、そこで最後の小石を見つけるとすぐに米吉が帰って来たという物語だ。

 「小石」と「恋し」がかかった題名を持ち、戸倉上山田温泉の発見の起源を描いた物語は、100年前には何もない川原だったこの場所が高度経済成長期に一大温泉地へと急成長を遂げた過程で産み落とされたのではないかと推測しているが、その真相を知るものはもはやこの世にはいないだろう。

 先日職場に4人の小学生がやってきて、この伝説について教えてほしいと言ってきたので、かいつまんで教えた。伝説の中で、お政の夢枕に立った老人は「おまえは『信濃なる筑摩の川のさざれ石も』という歌を知っているか」と尋ね、お政が「君しふみてば玉と拾はむ」と後歌を答えている。万葉集14巻3400番目に収録された作者不詳の東歌を言っているのだが、この千曲市の辺りで読まれたものであるかは実際のところ分かっていないようだ。

 大正橋の500mほど上流には万葉橋が架かり、西詰めの堤防には万葉公園がある。いくつかの万葉歌碑が置かれているが、中でも最も古い歌碑に、この歌が書かれている。昭和25年に、三角形のおむすびのような形の大きな石に佐々木信綱の揮毫によるこの歌の銅版がはめ込まれて建立されたと伝えられている。この最も古い歌碑は、子どものころから見慣れている。

 この温泉地で毎年行われている戸倉上山田温泉夏祭りや千曲川納涼花火大会に作詞家の山口洋子が来ていたことが縁で、この公園内に五木ひろしのヒット曲「千曲川」の歌碑が建ち、ボタンを押すと歌がフルコーラス聴けるようになっている。

 子どものころ毎日のように出かけた千曲川の川原には今、子どもが遊ぶ姿は見られない。千曲市がその名を冠した千曲川だが、市の象徴であるこの大河と地域の住民との関わりは、時代と共に希薄になり、現代の子どもたちには川で遊んだ思い出は欠落している。現代を生きるわれわれは川で死ぬ必要はない。川で遊んだ思い出と川で死ぬことを天秤にかければ、それは死ぬほどのことではないと誰もが思う。しかし、現代の千曲市民が千曲川から離れてしまった原因は、実はそんなことにはなく、多くの子どもたちは川遊びなんかには見向きもしない「仮想世界」という広大な遊び場を与えられて生きている。

 大人でさえ川での遊び方を知らない。この現実を考えずに川とのふれあいだ「水辺の楽校」だと手間と金と時間をかけてみたところで、わがふるさとの千曲川はアレチウリが蔓延り、大量のごみが投棄された「負の場所」であり続けることだろう。

 1キロ3分のペースで自転車を走らせながら水面を覗くと、水が澄んでいるときには魚の姿を目で追うことができる。せめて毎日の通勤時の川と過ごす時間を楽しみたいと思っている。

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2011年6月29日 (水)

千曲市叙景 その1

もうすぐ7月。わが家の男たちが死にもっとも接近する6月はまもなく終わる。そして今日は6月29日。祖父と父の祥月命日だ。夏祭りの作業が忙しくなる5月以降は朝までの飲み会も多く、46の体には堪える。自分も6月にむしろ死んでいきたいとは思うが、まだ早い。
 通勤用の自転車は職場にある。先週の3階に勤務する職員を集めた懇親会で会場が出してくれたバスに乗ったので、職場に放置したままだった。そのため、今朝は徒歩での通勤をした。
 昨夜の降雨で幾分増水した千曲川を大正橋の上から眺める。水辺に特有の生臭いにおいが微かにした。戸倉上山田温泉の排水が千曲川に流れ込むこの場所は、生かさなければならなかった清らかな水を犠牲にして成り立ってきたこの観光地の昨今の衰退を象徴するかのように、ゴミや油にまみれ、薄汚れて腐臭を放っている。
 千曲川上流部の流域市町村では下水道が盛んに整備されてきており、本流の水質は改善してきている。それを裏付けるように、汚れた水を好む鯉が、この温泉地の流れ込みに密集している。温泉排水の水質も30年ほど前に比べれば、まあ、ましになった。しかし、この水路の汚れを知る昔からの住民は、誰一人としてここに群れる鯉を食べようとするものはいない。
 昭和3年に昭和天皇の即位を祝うために始まった温泉夏祭りは、80余年の歴史に平成23年の新たな歴史を刻むため着々と準備が進められている。10年ほど前までは京都の祇園祭に肩を並べるため、7月の17、18日に開催されていたが、観光面の配慮と、平日の開催に地元社会が耐えられなくなったことにより、海の日の前の土日の開催になった。この祭りの特に2日目の夜8時以降の中央通りのクライマックスを見たことのない方は、ぜひ一度ごらんいただきたい。今年の夏祭りは16、17日に開催される。

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2011年3月16日 (水)

大災害のさなかに思うこと

こんな大災害のさなか、読売新聞は「政府は無策」だと菅内閣を批判している。

そういわれても私にはよく分からないので、何をもってそのように判断したのかを説明してほしい。そして、そこに現れるであろう理想の政府の理想の行政とは、いったい誰に担われれば実現できるというのだろう?

まして言いたい「時と場合を考えろ!」とね。

話は変わって、災害現場への食料等の搬送のこと。

一番乗りがなぜボランティアなのだろう?

県庁は、なぜ出てこないのか?

見えないだけに不安も膨らむ。

私が知事なら、被災した市町村にそれぞれ数人ずつ職員を配置して、状況把握、物資の手配、輸送手段の確保、現地行政の拠点整備、専門職員の配置など、生存者のケアをさせるだろう。やっているかもしれないが見えてこない。

わが市でも、どう見たって長期間にわたり寝具、食料が不足するのは目に見えているのだから、募集を始めてもいいと思う。

炊き出しの手伝いくらいならできるから、避難所運営に出掛けてもいいと思っている。

押しかけて迷惑になりたくは無いが、足りないのにそれを埋められない愚を犯しているのは誰なのか現場で確かめたい気分になる。

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2010年8月31日 (火)

Twitterでできることって?

Twitterというつぶやきツールが人気です。

これは、ある程度の準備をしないと「孤独な叫び」になってしまうので、登録してすぐにつぶやくと孤独感を更に強める結果になりよくないです。
私も始めたばかりですが、フォロワーがつくか、まずハラハラします。

幸い友人がすぐに見つけてくれてフォローしてくれたので事なきを得ました。
その後、千曲市在住と思われる方を検索してフォローしたり、有名な人のフォローもしてみました。

先日、Twitter上で偶然見つけた元オウム真理教の上祐氏をフォローしてみたのですが、前から思っていた漠然とした気持ちをダイレクトメッセージに乗せて送ったら、いきなり返事が返ってきました。
彼に対する気持ちを言葉にしたことはなかったので相当に変な文章を書いてしまいましたが、それでも都合6通分のダイレクトメールで返信をしてくれました。

また、芸能活動をしているいぬいさんという方がフォローしてくれていたり、フラワーアーティストの柿崎順一氏(柿崎さんはリアルでも面識がありますが)と繋がることができるなど、私とは比較にならない有名な人との接点が創れるので使い方を工夫すれば非常に楽しいツールです。

先ほどの上祐氏に対する気持ちについては、オウム事件のあと、オウム真理教、アーレフと決別して「ひかりの輪」という別の教団を立ち上げて、多くの信者さんとともに真面目な活動をしているようです。
私が引っかかるのは、問題設定は社会学や政治学と同じ視点を引きながら、宗教的なというより倫理・道徳的な言葉で問題を柔らかくしてしまって、そのことが私には曖昧な状態で保留してしまうように感じられた。
そのことを140字の制限の中で伝えたかったわけです。
むしろ宗教という「手段」から離れたほうが、彼の立てる問題設定に対する解決策を探りやすいのではないか、と思うのです。

上祐氏のオフィシャルホームページをリンクしておきます ⇒ http://www.joyus.jp/

問題設定が宗教的ではないのに、それがひかりの輪による問題の解釈や改善方法の段で、一気に宗教的になってしまうのが残念なんです。
「世界ヒツジ化計画」みたいなものにさえ見えます。「慈悲・智慧」をもって世界を見ると穏やかな幸せが得られるということで、そんな自分を目指して極端でない修行をすると、その境地に達するということみたいです。
詳しくは上記のサイトで確認してみてほしいのですが、問題設定が荒すぎるので、情報化社会で生きている現代人には飽きられやすいし、宗教的は部分は敬遠されてしまう気がするのです。
上祐氏は、社会的な影響力を持ちます。彼が仏陀のように哲学や社会学をを説けば、もっと有効な社会変革が可能であると、わたしは思っています。
そんなことを指摘したら、圧倒的な論理の差で反論されてしまいました。大学時代に外国語による徹底したディベートの訓練を受けてきた彼に私の真意を分かってもらうにはTwitterの140字では到底無理な話ですし、それ以前に私の言語運用能力ではそもそも不可能です。
まぁ、ディベート大会ではなく個人と個人の話しですし、説得しあうわけではないし、自分の中に生まれた疑問を放置するのは精神衛生上よくないし、Twitterというネットツールによってより近づける環境が出現したので、たくさんの人々の声を聴いて行きたいと考えています。

一概に「宗教」といっても、宗教が何かを説明できる人は世界中にたくさんいるわけではありません。個別の教団の実態は千差万別で、標準的な宗教があるわけではないし、社会制度ではないので、決まった要件があるわけでもない。
世界には「政治=宗教」の世界もあるし、「宗教=地域文化」の地域もあります。宗教的なコミュニティが社会の相互扶助を実現する懐の深いものであることもあるし、日本でも最近登場しているように無宗教のお葬式をする人がいる社会もあります。
上祐氏は、社会も宗教も不二であり同一のものの側面でしかないと言っていますが、無宗教の人の生きて死ぬ場所があることを考えれば、宗教と社会は同一ではないとわたしは考えます。
私は、宗教をうまく説明できない人間の一人ですが、今はこう考えています。宗教はその教団に特有の価値体系で、それを共有するのが教団という組織であると。
オウム事件は、私たちの世界の法で守られた価値体系が実は非常に脆いものだということを示す好例であったと思っていますが、あの事件のあとも、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いへの答えが見つからないままに、大勢を殺害する事件がたくさん起きています。
戦争という大規模殺害行為が国家によって発動される世界の不条理を、われわれ人類は乗り越えられていません。
そうした中で、日本人はだんだんと宗教から遠ざかっているような気がします。

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2010年8月15日 (日)

夏バテか・・・

何もする気が起きず、危機感を感じて薪割りなど始めてみましたが、どぉ~もスッキリしません。

お腹がすいてるわけでもないのに、毎食食べて、祭りで燃やした体脂肪が急激に戻りつつあるのを日々実感しています。

やばいですね、このままでは。

とにかく燃え尽き症候群から早く脱出して、基礎代謝上昇プログラムを始動させないといけません。

Twitterであれこれつぶやいていますが、現在フォロワー2人。

ほぼ独り言にひとしいです。

Ustreamも試験放送まで済ませていますが、ちゃんとしたコンテンツがそろわなくて、かなかな本番を迎えられなくて・・・。

たぶんアレだな、手を広げすぎて、一つもモノにならないといういつものパターンに陥っているのだな。

職業柄の制約も多いし・・・。

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2010年4月22日 (木)

自家製味噌にチャレンジ!

 味噌の仕込をやってきました。
 お米(三斗)をふかして、1kgに1gの割合で麹菌を入れ、よくよく混ぜて袋に入れ、毛布3枚と電気毛布にくるみ、ブルーシートで覆って、今日の作業は終了です。
 写真があると良かったのですが、米を蒸すのも屋外にカマドを2つ用意して、そこで蒸し上げるという旧式です。

 秋には食べられるとのことで、楽しみにしています。

 次は25日に最後の作業をしますので、そのときの様子は写真に収めてきますね。

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2010年2月12日 (金)

国会の外にリングを作れ!

テレビで放送される場面が意図的に選ばれているのかどうかは知らないが、国会の予算委員会の委員会の中で、小沢進退問題がやたらと放送されていて気分が悪い今日この頃、みなさん、いかがお過ごしですか?

予算の内容審議は国民に直結するので最重要なはず。
それを小沢だ鳩山だと、進退問題、責任問題みたいな話ばかりがうるさく騒がれて、肝心の予算審議に手がついてない。
まぁ、たぶん切り取られていない部分もたくさんあって、そのカットされている部分で審議はやられているのでしょう。しかし、不愉快。うるさいし、しつこいし、目的が不明確だ。

犯罪性があるなら検察に任せればいいのだ。政治倫理だ、運営能力だ、などという政治家のお話は、どこか別の場所でやってもらいたい。
政治家は、国民の利益を最優先に考えて動かなくてはいけない。
国民にとっては小沢問題なんてどぉーだっていいわけです。顔が嫌いとか、政治家に対する権力(圧力)が強すぎて怪しいとか、態度が横柄だ、などということで「追及されてボロだせばいいのに」などと考えている国民は、そりゃごまんといるだろうが、そんなわら人形への釘打ちを他人に委託するような国民の態度はよくないと思う。
悪いか悪くないかを解明するのではなく、そうした行為をする人間がいる政党は責任ある舵取りなどできない、という政争のネタでしかないわけで、そんなことばかり言いたがる政治家を、国民は選別、仕分けしなければいけない。

そうした無益なやり取りを国会から追放するためには、やはりそれなりのリングを用意しなければならないだろう。検察の取調べのような現行法に照らした捜査をするのではなくて、報道されることを前提にした、政党の正当性問題の追及や、気に食わない政治家の政治家としての適正を、国民の前で大げさに言い立てて世論を操作しようというのだから、そうした目的を満たす仕組みを創ればいい。
倫理が議論されることを考えると、政治家が披瀝する政治倫理なるものの現在的な有効性を判定する何らかの基準が必要という話にもなるだろうが、そこは政党間、政治家間の殴りあいなので、一部始終を国民に見てもらうために、民間のスポンサーを募って格闘技番組並みに様々なメディアで垂れ流してライブでアンケートなどを取ったりなんかすれば非常におもしろいだろう。視聴率も大変なことになるはずだ。

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