2008年4月17日 (木)

政教分離の原則と「神社で市長あいさつ違憲」判決

4月7日、名古屋高裁金沢支部の下した判決は、政教分離の原則を拡大解釈的に適用し、白山比咩(しらやまひめ)神社の大祭奉賛会で祝辞を述べた白山市長、角(かど)光雄氏に対し「憲法違反」として有罪とした。

 わたしがこの短い文章で記された事実に対して抱く疑問はこうだ。

★「政教分離の原則」とは、どこにどのような形で定められ、どのように周知され、どのように守られているのか?

★「憲法違反」の判決を市長が受けることはあるのか?つまり、憲法は市町村長が守るためにあるのか?

 わたしの憲法理解はこんな感じになっている。

 国家は巨大な怪物“リヴァイアサン”であり、国民はその統治を受け入れるにあたって、怪物が暴れださないように、切れないクサリで縛る必要がある。国民が国家を縛るクサリが「憲法」である。

 最近になってやっと報道番組などでも登場するようになったが、憲法とは国民が国に対して守ることを要求するものだとの認識が次第に一般化され始めていることは感じている。現在、国は「道路、道路」と繰り返すばかりだが、そうした更なる利便・快適を追及するレベルではなくて、「人間が生きる」というレベルで未来永劫に渡って維持しなければならない分野における「ナショナルミニマム」が憲法に書かれている。それを守るという責務を国家が受け入れることを条件に、国民は国家に対して統治権を認めるという構図があるわけだ。だから、憲法違反を犯したとして被告席に座るのは、国あるいはそれに準ずる地方公共団体ということになるようだ。

 それを踏まえたうえで、今回取り上げた判決について少し考えてみよう。

 「政教分離の原則」に則って「違憲」判決が出されているのだから、政教分離の原則は憲法に書かれているのではないかと想像する国民が多いことと思われる。けれど、実際にそんなことはまったく書かれていなくて、憲法第20条「信教の自由」がその「原則」の根拠になっているとのことだった。条文は次のとおり。

「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」

この短い条文を解釈したり補完したりする中で次第に「政治」と「宗教」の関係に関する「原則」が形成され、現在のような解釈の元となる「原則」できたのだと思うのだ。条文の解釈におけるさまざまな歴史的な経緯を経て「行政が宗教にお金を使ってはいけない」的な短絡として一般化され、いつのまにか一人歩きを始め、ここにいたり「市長は神社であいさつをしてはいけない」という公式の判決が出るにいたった。

 わたしは憲法の解釈に詳しくない。

 だから、実際の判例や内閣法制局の見解などで専門家のさまざまな解釈を参照してほしい。

政教分離の原則について「ウィキベディア」では次のように説明されている。

【引用開始】

政教分離原則(せいきょうぶんりげんそく)とは、国家権力と宗教‐厳格に言えば「教会(宗派)」との分離を指す‐とは相互に分離されるべきであり、国家権力が宗教団体を援助・助長、又は圧迫してはならないとする原則をいう。政教分離原則をして、世俗主義ということもある。政教分離とは逆に、国家が特定の宗教を援助・助長するなどの密接な関係にある場合は政教一致(せいきょういっち)と言う。各国において、国教制度、宗教と政治勢力との歴史的経緯(一例に欧州フランス王朝の教会との癒着と極東アジアでの法であった儒教の存在など温度差がある)から政教分離の程度には濃淡が見られる。

日本国憲法においては、第20条(信教の自由)においてこの原則が規定されている。自由権としての信教の自由を間接的に保障するための制度的保障として理解される。すなわち、国が、特定の宗教を優遇したり弾圧したりすることによって、「信教の自由」を侵す事を禁止しているものと理解される。よって、万人の信教の自由を保証しうるためにこの原則が行使されず優遇されているように見えることもある。

【引用終了】

また、前出の「ウィキ」で紹介されている内閣法制局の見解は次のとおりだ。

【引用開始】

内閣法制局は「憲法の政教分離の原則とは、信教の自由の保障を実質的なものとするため、国およびその機関が国権行使の場面において宗教に介入し、または関与することを排除する趣旨である。それを超えて、宗教団体が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではない」(内閣法制局長官大森政輔の国会答弁趣旨)とする。

また、最高裁判例(昭和52713日、津地鎮祭違憲訴訟大法廷判決)は、「憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである」「政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であつて、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである」と述べて、政教分離原則が「国家」と宗教の分離を目指した規定であると明言している。これは現在の日本の憲法学の支配的見解でもある。

日本における政教分離原則は、1945(昭和20)年1215日に、当時日本を占領していたアメリカを中心とする連合国総司令部(GHQ)が日本国政府に対して神道を含むあらゆる宗教を「国家」から分離するように命じたのがその始まりである(神道指令)。日本国憲法第20条は、松本委員会案を前提に連合国総司令部が欧米の憲法を基に作成した草案の第19条を日本国政府が日本語に翻訳し採用されたものである。

つまり政教分離原則は完全に欧米から輸入された概念であることが歴史的事実より明らかであるが、この経緯を軸に、欧米における政治と宗教の関係を見れば、アメリカではキリスト教右派やイスラム団体が積極的に政治活動をしており、ヨーロッパ各国には宗教政党が存在し、ドイツは宗教政党の党首が首相に就任しているが、いずれも政教分離原則違反とはみなされていない。したがって、宗教団体が政治活動をしても政教分離原則に違反しないことは明白であり、憲法上何の問題も無いと解するのが妥当である〔「信教の自由と政治参加」(竹内重年著、第三文明社)等参照〕。

【引用終了】

 この憲法第20条の本文についてわたしが言いたいのは、「国及びその機関」に対しての命令である「宗教教育」と「その他いかなる宗教活動」をしてはならない、という部分に、今回違憲とされた白山市長の行為が該当するのかどうかを、高等裁判所が出した判決だからと鵜呑みにしないで、じっくり考えてみてほしいということだ。

 創価学会の政治部である公明党が与党として政治活動をおこなっても違憲ではない(わたしは問題だと思うが)のと同様に、ただ単に地域の首長という立場で呼ばれて出席しているその場でのあいさつは宗教活動ではありえない点のみを考えても、「憲法違反」などではありえないことは明白だとわたしは思う。

 裁判所に対しては実に立場の弱い全国の市区町村長は、この判決でさらに襟を正さなければならなくなったことだろう。もちろん千曲市長も例外ではない。市役所のホームページ内の自身の日記で、違憲と判断される行為は厳に慎むのでご理解を、という内容が書かれている。これは仕方がないことだろうが、全国の首長の多くは、実はわたしのような本心を隠している場合が多いと、わたしは想像する。

 観光資源としても有名な寺社や仏閣を抱えている市区町村ならなおのこと宗教的でない意味での、首長と宗教団体との深い結びつきが存在していることだろう。

 何が宗教活動で、何が非宗教的な活動なのか、グレーゾーンを含めいろいろな場面があると思うが、誘客効果の高い「おらが村の祭り」に出てあいさつすることが宗教活動であるのかないのかの判断なんて、さしてむずかしいことではない。まぁ、場面場面、それぞれの文脈に依存して判断の分かれるところがあるので、一概には言えないのも承知しているが、今回の判決「あぁ~、やっちゃったなぁぁぁぁ」って感じ。

 たぶんその神社に対する恨みがあるとか、これとは無関係な対立の構図がすでにあって、その一環として「坊主の袈裟」に切りかかったという裏があるという想像も働く。地元の住民には見えていることが、全国ニュースでは絶対に報道されない。凶悪犯罪の犯人が捕まる前に、その地元で「あいつだよ!」といった噂が広まっていることがよくあると聞く。地元の声はなかなか表には出てこないから裏の構図は闇の中だ。

 金額の多寡にかかわらず公金の支出がアウトで、気分を害する市民がいるなら、公金を使わず、一市民としてあいさつすればOKなのか?裁判所も「公金を使ったのが悪い。だから2000円返せ!」と判決を下したわけだから、あいさつする行為が宗教活動でないのかもしれない。どこかの勇気ある首長さん!お金使わずに同じことをやってみてほしい。それは違憲との間スレスレの綱渡りだが、日ごろの行いが良くて、運がよければ有罪にはならない。

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